日常
東京事業部の周りを歩く
東京事業部周辺を散策してみました。
まず、東京事業部のあるICSTビルの建物です。
2回前のIさんのブログ「手軽に旅気分!」で最後に載せておられた写真で述べられているように
3月31日までの外壁工事で今はこういう状態です。
ここが出発点です。この建物の1階から3階が東京事業部です。
歩いてすぐのところにある堀留一丁目の堀留児童公園です。
ここは実は日本橋堀留町の町の名の由来となった場所です。
日本橋川から2本の堀が伸びており、のちに東堀留川、西堀留川と呼ばれましたが、ここは東堀留川の最終地点だったところすなわち「堀留」の場所です。
堀は関東大震災の瓦礫と戦後の残土処理ですべて埋め立てられ、今はありません。
堀を埋めた後には建物は建て辛く堀のあった後は道路になっており、
その跡をたどることができますが、ここ堀留は堀が広くなっていたため、
こうした公園になっています。
後ろに聳えるのが日本場橋保健センターの建物です。
ここは災害時の避難の際の一時集合場所になっています。
堀はこの写真の手前から流れてきて保健センターのところで終わっていたのでした。
西堀留川の案内看板に江戸時代の地図が載っていますが、
図の下の方を流れるのが日本橋川でそこから日本の堀が上部北側に伸びているのが見て取れますが、その右側の方が東堀留川でそのどん詰まりの上の端が堀留児童公園の場所になっています。
西堀留川の案内板をご覧ください。
東堀留川のあった堀の流路は埋められこうした道路になっています。
ここは日本橋川寄りのところです。
当社が生業とする治験を行う製薬会社のビルが現在はこのあたりにたくさん集まっています。
まもなく終点です。
一番奥に先ほど堀の最終地点堀留にあるのをご紹介した日本橋保健センターがかすかに見えています。
魚河岸のあった日本橋川です。
東堀留川、西堀留川に連なる日本橋川は関東大震災までは東京湾から水揚げされる魚の輸送に使われ、日本橋のたもとのこのあたりから魚河岸がありました。
今は豊洲に移転してしまった築地市場ができたのはこの魚河岸が関東大震災で焼失してしまった時以降で、その時までは江戸の魚はここに集まっていたのでした。
今は見る影もありません。
魚河岸は先ほどの古地図でいうなら日本橋川を左にすなわち西に少し行ったところにあたります。
日本橋のたもと、三越前駅の出口に案内板があり、そこに魚河岸当時の絵が載っていました。
高速道路のある上の写真と同じ方向から描かれています。
比較してご覧ください。
魚河岸があった証拠にこのあたりには山本海苔店、にんべんなどの本店が今もあります。
東京事業部最寄駅の東京メトロ、都営地下鉄の人形町駅の入り口です。
江戸時代、このあたりには人形浄瑠璃、歌舞伎の芝居小屋が点在しており、人形町の名の由来はこのあたりに人形芝居の人形を作る人、修理する人、商う人、人形を繰る人が大勢暮らしていたことに由来します。
人形町交差点です。
人形町の表通りに「江戸堺町葺屋町芝居町跡」の案内板があります。
ここからちょっと路地を入ったところ、当社オフィスから2ブロック人形町駅寄りの堀留一丁目と人形町三丁目の境目あたりに江戸三座と呼ばれた芝居小屋のうち中村座、市村座があったとされ、かつて多くの人を集めていました。
簡単に言うと東京事業部から人形町駅に向かう間のブロックに中村座、市村座とそれを取り巻くたくさんの茶屋があったということです。
先ほど見た堀に船を浮かべて多くの観客がやってきたことでしょう。
ブラタモリで大阪の角座、中座がやはり船でお客様を運んでいたのをご覧になった方がいらっしゃるかもしれません。
あれと同じです。
人形町三丁目のこのビルが建つ時、発掘調査が行われ、芝居小屋を取り巻くようにあったたくさんの茶屋のうちのひとつと思しき遺構が発見されているようです。
今も東京事業部南西の浜町にあるこの明治座は直接この三座との関係はありませんが、このあたりがそうした芝居小屋の蝟集していた名残ではあります。
坂本冬美の30周年記念講演千秋楽を楽しませていただいたのが思い出されますが、あれから5年経ったのですね。
現在、奇しくも35周年記念講演が行われていますが、感染症予防のため今回は泣く泣く諦めることにいたしました。
現在、人形町駅と水天宮前駅の間の人形町通りの両側に観光用に二つのからくり櫓が建てられ、昼間は1時間ごとに2-3分のからくり人形のパフォーマンスがあります。
日本橋小学校の片隅に西郷隆盛の住居があったことを示す碑があります。
征韓論を唱えた頃の西郷が住んでいたといわれています。
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」の中にも記述があります
玄冶店(げんやだな)の跡です。
♬ 粋な黒塀 見越しのま~つに
仇な姿の 洗い髪
死んだはずだよ お富さん ♬
ある程度、齢を重ねた方はご存じかと思いますが、春日八郎が歌い一世を風靡した歌謡曲「お富さん」の舞台になった場所です。
もとは歌舞伎の「与話情浮名横櫛」(よはなさけうきなのよこぐし、通称『切られ与三郎』)の名場面から来ています。
この案内板、先ほどの「江戸堺町葺屋町芝居町跡」の案内板の道路向い側にあります。
芝居小屋のすぐそばに舞台となった場所が実在していた設定だったわけです。
今、玄冶店(げんやだな)の跡はこんな薬屋さんになっています。
文豪谷崎潤一郎の生家の場所です。
潤一郎の生まれた頃、谷崎のお父さんは印刷所を経営されていたとのこと、当社とも少し縁があるのでしょうか。
谷崎の書いたものの中にこの界隈の描写が見られるそうです。
東京事業部の北東方向には横山町の問屋街があります。
横山町は馬喰町とともに日本橋を起点とする日光街道、奥州街道の北上途上にあたり、近隣に投宿する旅人向けの小間物、薬種、紙煙草入、書物等各種問屋が軒を並べ、殷賑をきわめたと言われています。
今もこの問屋街にその名残を忍ぶことができます。
東京事業部の北には小伝馬町の駅がありますが、駅の北側に旧十思(じっし)小学校跡の十思スクエアというのがあります。
ここは現在、保育園、デイルーム、お年寄り相談センター、訪問看護ステーション、牢屋敷展示室など多目的に利用されています。
東京事業部の属する地域の広域避難所になっているのと、建物が1920年代にヨーロッパで流行したアール・デコという特徴的な建築様式で知られていますので、挙げておきましょう。
小学校の運動場だった広い庭は近隣の方の憩いの場になっています。
最後にグルメの方のために、東京事業部近くにはこうしたスペイン料理店やイタリア料理店など個性的なお店があることを付け加えておきましょう。
コロナ禍のため、今はこうしたお店もお弁当を売っています。
ここに述べたように東京事業部周辺は今は見ることのできない昔-江戸時代から昭和の初期にかけて-を想像力で補って散策する場所です。
ただ歩くだけではあまり面白みのないところかもしれませんが、往時を振り返りながら朝晩の通勤の際や昼休みにちょっとずつ跡を辿るとそれなりに味わい深い江戸名残の街であります。
本日のブログ担当★Kさん(いつもblog管理ありがとうございます!)★from Tokyo
2021.3.1