日常
日本の城、ぶらっと巡り旅
コロナ禍の中、開催された東京五輪が無事に閉幕しましたね。
日本のメダルラッシュに皆さん、大いに沸かれたと思います。
私も東京五輪を休日、自宅で観戦していましたが、
コロナ禍になってからというもの、遠出することが難しくなり、
家で過ごす日々が多くなってしまいました。
趣味である観光も兼ねた日本の城めぐりができないのはつらい。
そこで私が今まで訪れた城を振り返る目的も兼ねて皆さんに紹介したいと思います。
今回は紹介するのは、コロナ禍前に4連休で訪れた愛媛県の城です。
まずは今治市にある今治城
築城したのは藤堂高虎公。
初め織田信長の義弟、浅井長政に仕えたのを皮切りに浅井家滅亡後は織田家に仕えた旧浅井の家臣、信長の甥、豊臣秀吉の弟の秀長、秀吉、徳川家康と仕える主君を次々と変えたことで有名です。
(ただ、高虎が最後まで忠節をつくしたのは秀長と家康の二人だけ。)
高虎は秀長家臣の時代から戦働きだけでなく、築城にも抜群の才能も発揮しだします。
関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍につき、功績を挙げたことで愛媛県の半分を与えられ、
今治城を築きました。
高虎の築城技術はとても優れており、
この後、紹介する宇和島城と大洲城も彼が築城に関わっています。
今治城は瀬戸内海に面した海の城で築城当時は三方向を海に囲まれていました。
今は埋め立てられていますが、その名残は残っており、城のお堀の水は海と繋がっています。
そのため、堀に海の魚が住んでいるという珍しい城です。
写真は天守からの光景
次に紹介するのは宇和島市にある宇和島城
先に紹介した通り、築城したのは藤堂高虎公。
ただ一から作った今治とは違い、元からあった城を石垣づくりに変えた城です。
今治と同じく海に面した城ですが、平地の今治と違ってこちらは小高い丘の上にあります。
藤堂家の後は富田家、次に伊達家の城となります。あの有名な独眼竜政宗の長男、秀宗から始まる宇和島伊達家です(伊達本家の仙台は次男の忠宗が継いだ。理由はここでは割愛します)。
宇和島城は現存十二天守と呼ばれる昔からの天守が残っている城で、その土台の石垣は元からそこにあった天然の岩を加工したもので他の城には見られないのも特徴です。
次に紹介するのは大洲市にある大洲城
この城も古くからあった城を石垣づくりに変えた城で基礎部分は藤堂高虎公が担当。
その後、高虎と同じ滋賀県出身で豊臣秀吉、徳川家康に仕えた脇坂安治公の城となり、
彼が城主の時代に今の形になりました。
この城ですが、最寄りの伊予大洲駅から川を隔てた反対側にあるので歩いていくのは少し大変です。
今治と宇和島も駅から離れていますが、大洲が一番遠い。
大洲城の特徴は天守や櫓を木造で復元した城で外観もですが、中は築城当時の姿をしっかり復元しています。
大洲は観光時間に余裕があったので大洲城の他にもおおず赤煉瓦館や臥龍山荘(重要文化財)に
足を運びました。
最後に紹介するのは松山城
築城したのは加藤嘉明公。
豊臣秀吉に子供の頃から仕えた子飼いの家臣で加藤清正や福島正則、石田三成らと同じような境遇です。
先に紹介した高虎や安治ととともに豊臣家の水軍大将を務めた人物でもあり、領地も淡路、
それから愛媛といずれも海に近い土地を与えられています。
関ヶ原の戦いでは東軍につき、功績を挙げたことで愛媛県の半分を与えられ、
松山城を築きました。
松山城も宇和島城と同じ現存十二天守に該当する城で山の上と下にそれぞれ観光できる場所が
ありますが、私の目的は天守のある山の上だったのでそちらへリフトに乗って向かいました。
曇り空だけが残念でしたが、天守や櫓、石垣を見て回り、存分に城を楽しむことができました。
長々と語ってしまいましたが、まだまだ行けてない全国各地の城、
これからも巡って行くつもりです。
本日のブログ担当★Kさん(共にブログ編集よろしくお願いします!)★from Tokyo
2021.08.12